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郷土の人

土志田清兵衛翁

土志田清兵衛翁

 土志田清兵衛翁は、文政10年(1827年)都筑郡恩田村(現田奈町)にて出生されました。
 代々農業の傍ら搾油業を営む幼少時麻生の浄慶寺住職貞龍に師事読み書きを習い、十日市場村の歌人田中昌次郎についても書を学んでその後、近隣に子供にも読み書き習字など教えられました。
 華美を好まず、温厚の性格で村政に尽され、公益のため慈善に尽し窮民救助道路補修、橋梁建設等数々の慈善行為を行いました。
 明治23年(1890年)5月8日63才にて逝去され明治24年10月には清兵衛翁の1700円寄付金に基づいて都田村川和に於いて12ヶ所により清兵衛農事試験場を設立されました。後に都筑郡農事試験場となった。


土志田清兵衛翁の碑

土志田清兵衛翁の碑

 土志田清兵衛翁の碑が東急田園都市線田奈駅の近く、土志田家の庭内に立っています。
 その碑文を以下に紹介します。

土志田清兵衛君の碑

神奈川縣知事正四位勲二等 中野健明による題字

都築郡に、人々に多く恵みを施した人がいた。土志田君という。土志田君は勤勉と倹約により家を栄えさせ、巨万の資産を蓄えた。しかし善行を楽しみ、人々に恵みを施すことを好み、人々の利便を図る事業を興すことも早かった。道路や橋梁が崩れたり壊れたりした時は、土志田君は専ら修理や建設の仕事に任命された。道や橋を往来する者、物を運送する者は皆その利便に与った。このため名声はあちこちに響き渡った。修繕のなされていないわずかな土地を郡の長官より受け継ぐと、ますます郡管理下の結びつきは強まった。巡視をしてみると、道路には皆石畳が敷いてあり、橋にも石を架けてあり、きれいな修理のされていない所は無かった。その人物像にも目を向けてみると、背は高く痩身で、誠実な様子が顔かたちにあふれていた。私の質問に答える際、建設した所を真心をこめて語り、飽きることがなかった。誇った様子は一つも無く、その人柄を敬い慕ったものである。明治二十三年五月八日、土志田君は病気で家で亡くなられた。享年六十三歳だった。彼をよく知る者も知らない者も、その死を悲しみ惜しまない者はいなかった。近頃同志が相談して、碑を建てて故人の死後の人徳を表そうと考え、私の所に来て、碑文を依頼してきた。私は以前から、土志田君とは互いに面識があり、碑文(銘)の依頼も断ることはできず、そこで書付をもとにこれを記すものである。

土志田君は通称を清兵衛といい、土志田はその姓である。武蔵の国都築郡田奈村恩田の人であった。父は庄兵衛と称し、母は鈴木氏の出であった。土志田君は幼い時に父を失い、叔父の鈴木氏に育てられた。成長して家を継ぎ、母親にたいそう孝行を尽くした。先に母親が病気で臥せった時も、そばに付き添って世話をし、怠けることをしなかった。薬やお粥、下の世話から洗濯まで、全て自分の手で行った。人と接する際には、常に、人々に恵みを与えていた。学校を作る資金を補っては、夜学を開き大人を教え、裁縫の学科を設け幼女を教え導いた。また自活できない者を自活できるようにさせ、自分の家では葬儀のできない者にも、葬いを出す援助をするなど、その恩恵は数えきれないほどであった。また国事の戦争(戊辰、西南戦争迄をさすか)に殉じた里人のために招魂の碑を建てた。思うに善を楽しみ、恵み与えることを好むのは、天性のもので、特に建築修繕の学が優れていただけではない。明治八年から二十三年までに寄付した金は数千円とわずかな田圃である。この頃郡官からも、しばしば賞を頂くことがある。土志田君は田邊氏の娘を妻として迎え、二男五女をもうけた。長男は五十四郎といい、家を継いだ。次男は辰之助という。長女は早くに亡くなり、次女は信田氏に嫁した。他は家に暮らしている。

 碑銘にいう(碑文の内容を詩にしたものである)。

財産を増やすことは容易ではないが

財産を使うことは実に難しいものだ

善のために財産を増やし善のために財産を使ったこの方は

心には熱いものを持ち、肝は真心にあふれていた

清らかで汚れのないこの地を

故人の魂が来て安らぐ所と定め

八尺の大きな碑を建立し

永遠に欠かすことなく残そうではないか

 中溝昌弘の撰(撰次=詩文を作り順序よく並べること)初代都築郡郡長、神奈川県議会議員第十一代目議長(明治二〇年十一月〜明治二十一年三月)

 神奈川縣屬(県職員)松尾美守の書

歌人 田中昌次郎の顕彰碑

田中昌次郎の顕彰碑

 土志田半兵衛家墓地の一角に、幕末の元治元年(1864年)10月、門人らによって建てられた「田中昌先生碑」がある。かつては、墓地の崖に横穴を掘り、その中に入っていた。埋もれていた歌人である。今日、十日市場でこの人を尋ねても、まず唯一人として知っている者はいない。
 彼もまた幕末期に、歌人・教育者・花道家として、都筑郡を代表する人物の一人であった田中昌次郎について、今日語ってくれるものは、唯一この碑文である。
 そこでこの碑文を以下に紹介します。


田中昌先生の碑

「先生の(いみな)(こうどう)(あざ)(しょうじろう)、姓は田中、都筑郡(つづきぐん)十日市場。(現 緑区十日市場町)
 以って文書(よく)す。(わが)(きょう)において郡児(ぐんじ)(子供)に(ゆうねん)(五穀がよく熟するように)に教授をする。(しか)るにって(ここに)(きょう)()官途(かんと)(役向き)をげる。
 士(しりん)(武士の仲間)に(つらな)なりぶ。有余不幸(して)(やまい)(病)にう。
 安政(あんせい)(かのとう)1855年)113歿49享年麻布運寺る。(現 東京都港区南青山1丁目に所在)
 謚(おくりな)(いわ)く、正宜(せいせん)院法譽(いんほうよ)貫学(かんがく)弘道(こうどう)信士(しんし)(しつ)(妻)は湯浅(ゆあさ)()三郎(しょうざぶろう)(息子)がでて粟井(あわい)ぐ。
 先生資性温和容貌(たんせい)
 教くことに(つかれ)ず、郡児欣欣(きんきん)(喜ぶ顔・喜び)、(さきに)くするので、敦厚也(きょうあつなり)(人情が厚い)。
 当時下世(かせい)(死)をき、しみいたむ。いて弟子は、遺徳(いとく)れず共議して建碑(けんび)ってえ、いてちさず。
 元治(げんじ)(がん)申子(きのえね)1864年)10月  當所(とうしょ)門人(もんじん)(これ)()てる。」


 これほど顕彰されるのには、大変に信望が厚く、なおかつ教え子の数も相当数にのぼったと考えられる。師に対して、門弟たちが遺徳を忘れないようにしようとの気持ちが強く感じられる。十日市場出身の田中 昌次郎は、田中長右衛門という人の弟であった。
 兄の長右衛門は、天保8年(1837年)に十日市場村領主細井右近知行所の年寄役を勤めていた。屋号を下駄屋と言う。ご子孫が十日市場に居住されているが、田中昌次郎のことについて尋ねたが、資料は何もないとのことであった。ただ江戸に出た学者がいたとのみ伝えられているだけである。
 田中昌次郎は、諱(いみな)を弘道、字を昌次郎。通称を清十郎と称した。性格は温和で礼儀正しい人であったと伝えられ、郷里において読み書きを教えていた。恩田村の慈善家土志田清兵衛も門人の一人であった。
 昌次郎も花道(いん)中流(ちゅうりゅう)をたしなみ鴻斎と号し、『允中挿花鑑』に花図をのせている。
 恩田村とあることから、同村に居住していたものか。
 昌次郎の師は、長津田村名主河原玄済の父荘兵衛朝貴であった。朝貴の墓碑の右側面に「門人田中祥次郎、孝子河原玄済」と銘文にあることからわかる。
 こうみてくると、久保の佐藤文成と河原玄済、田中昌次郎らは深いつながりがあったと考えられる。『類題新竹集』に昌次郎の歌がある。

 鴨の啼野すゑのはゝそほろほろとこ ほるゝみれハ冬ハ来けり

 安政2年(1855年)113日、江戸にて没する。享年49歳。
 葬地は、東京都港区南青山の教運寺。




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